桶川市小針領家にある赤い鳥居の「氷川諏訪神社」から100mほど上越新幹線の線路寄り、道が分かれるところ、土地改良完成記念碑の横に、桶川市教育委員会による史跡「備前堤」の案内板は掲げられています。

史跡 備前堤

「備前堤」という名は、江戸時代に関東郡代として、幕府の領地の開発にあたった伊奈備前守忠次に由来する。忠次は、鴻巣領(鴻巣市付近)、小室領(伊奈町)1万3千石を給され、小室に陣屋を構えた。

この備前堤は、常光(鴻巣市内)、中丸(北本市内)方面から流れる赤堀川を幅4m、高さ3m、長さ600mの堤を築いて締め切り、その流れを元荒川に直角に落したものである。

この堤の完成によって、下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年まで及んだという。

出水のたびに、上流と下流の村々で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、現在も残る「御定杭」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安とされたものである。

昭和62年3月 桶川市教育委員会

この碑の左側、黄色の中央線が引かれた道を北へ300mほど進むと、道の右側、小針領家グランドの西側に「綾瀬川起点碑」があります。ただ‥、この道は広くないうえに歩道がなく、信号もないので勢いよく走ってくる自動車に、歩行者は肝を冷やされ身の危険を感じるところです。

綾瀬川起点碑は一見これだけのようですが、、この碑に向かって右下の土手に「一級河川綾瀬川起点」と書かれた別の石碑も存在します。

上の写真は、文字がよく分からないのでこちらで写真の文字らしき箇所を白インクでなぞって作ったもので、実物にはこのヨレヨレ文字はありません。

二つの起点碑の位置関係を撮ったのが上の写真です。綾瀬川は‥、と言えばもうほとんど用水路ですが、一級河川がここから始まっています。実際、水源は田んぼの排水です。

起点碑のすぐ近くに、備前堤の上流と下流の村の争いを調停するために、土俵を積み上げてもよいとされた高さを示すための「御定杭(ごじょうぐい)」を見つけました!。起点碑の道を挟んだ西側の藪の中にその杭が立っています。ということは‥、この自動車が行き交う、この危険な道が「備前堤」ということです。碑の裏側に何やら文字が刻まれていますが判別できませんでした。

この道を元荒川の方向へ100mほど進むと、左手に桶川市環境センターを回り込むように流れる「赤堀川」が見えてきました。まっすぐに流れてきた赤堀川がこの備前堤によって、直角に流れを変えているのが、ここから見るとよくわかります。

さらにここから50mほど歩を進めると、桶川市環境センター前にかかる鍋蔓橋のたもとに出ます(この交差点は歩行者には大変危険なので十分気をつけましょう)。9月に来たときは、この鍋蔓橋から元荒川方向には夏草が人の背丈ほどにも生い茂り、そこを分け入って歩くのは不可能で、泣く泣く諦めて帰りましたが、11月中旬に行ったときは、きれいに刈り取られた後でした(^^)。

ここは一般の車輌は進入禁止のようで、のどかな気分で歩くことができました。いろいろと資料を見てきたので、元荒川との合流点のそばにも「御定杭」があるらしいとふんでました。まさに、合流する寸前の場所にそれらしきものを発見!。

ありました「御定杭」の二本めです。これは夏草が茂っている期間は雑草に埋もれ、とても見ることはできないでしょうね。

綾瀬川は、現在の赤堀川筋を流れていたと考えられています。備前堤で締め切られ、堤の上流で赤堀川となった流れは、この場所で元荒川と合流していました。

赤堀川と元荒川の合流点